Tony Director,Designer
A Talking About 清水泰
photo/interview/text:kennystring
ーまず自己紹介からお願いします。
1976年8月14日生まれの東京都新宿区出身です。
ー昔はどんな子供だったんですか?
実家は150年以上歴史のある老舗で、神楽坂で商売していた関係で何不自ない環境で育てられました。
末っ子だから自由にやらせてもらっていましたね。
ただ親父が早稲田、母親が学習院を出ているので3歳くらいから英才教育でした。
だけど幼稚園、小学校、中学校と受験したんだけど結局入れなくてそれから「もう、泰は好きにしなさい」って(笑)。
姉と18コ上の兄貴と14コ上の兄貴がいて、兄貴たちは昔サーフィンやってて、昔の「Popeye」の時代だよね。
しょっちゅうアメリカに遊びに行ってたから小学生の頃からお土産で「Patagonia」とか身の回りにあって。
姉もサーファーヘアとかもしていたし「ハマトラ(横浜トラッド)」とか流行に敏感な人で。
親父と母親も「ラルフローレン」が好きだったからそういうのも着てたし、アニキの部屋とか覗きに行って、アースウィンド&ファイヤーとかアイズレー(ブラザース)のレコードがあったり、もちろんサーフボードも置いてあったからそういうのが当たり前にある感じで。
そんな中で育って、今思うとそこは他の人と違う環境だったのかな?と思います。
ー羨ましいですね(笑)
洋楽とかも自然に入ってきてたから。
昔の曲の方が今でも好きだし、小学校5年の時に兄貴がボブマーリーを勧めてきて
「泰、これ聴いとけ、やべぇぞ」って(笑)
そういうのが身近にある生活だったからすでに幼少の頃から「アメリカ」ってものを感じていました。
ー青春時代は?
その頃は渋谷、原宿界隈のお店を回って、カレッジ物のスウェットにアメリカ生産のEASTPACKのバックパック、足元にニューバランスを合わせるスタイルとかで。
勿論、AIR WALKやVISIONも履いたけれどやっぱり自分はVANSが一番しっくりきたし、カッコイイって確信して大好きというか、人生そのもの(笑)なんて思ってました。
中学1年のあるとき、地元の先輩が「DOGTOWN」っていうカルチャーがあるって教えてくれて。
今考えるとどこから持って来たのかわからないけど、DOGTOWNの写真をいっぱい見せてくれたその中に「Tony Alva(トニーアルバ)」が豹の顔を持って立っている衝撃的な写真があって、そのインパクトにヤラれちゃって、「なんかスゲーな」って。当時情報がほとんどない時代だったからそこから自分で色々調べて、表参道にあった頃の「ストーミー」とか「アークティーズ」。上野の「マックスモーション」や「ムラサキスポーツ」などスケートショップへ行くようになりました。
ー街に出て色々吸収していったんですね。
DOGTOWN,Z-BOYZとしてはちょっと前でリアルタイムでは見てなくて。
当時はトニーホークとかパウエルが流行ってたんだよね。ファッションでDOGTOWNは流行ってたけど。
ただ、スケートすることがストリートじゃないんだけど、それこそプロペラやバックドロップとかでトラディショナルな物も買ったりしてたから。当時アメリカっぽいカルチャーはひと通りつまんできてるし、雑誌もすごい見てたかな。昔はあんまり(種類が)なかったから、そこら辺のシーンは見てこれましたね。
ブラブラしてるとやっぱり、顔とか覚えられたり人とどんどん繋がっていくから、先輩とか。
ーそういう話を聞くと、TOKYOっぽいですね。
スケートしに新宿中央公園の「ジャブ池」っていうところとか、池袋のサンシャインの所の公園によく行ってたんだけど、八王子や立川とかいろんなところから人が来てどんどん繋がって。そういう流れは確かにTOKYOっぽいかもしれないよね。
ー泰さんのことを知っている人はサーフィンのイメージが強いと思いますが、スケートが入り口だったんですね。
サーフィンとの出会いは?
高校1年の時、渋谷とか池袋の先輩たちが「Fine」の流れがあって、いきなりみんな黒くなって(笑)女の子も「LAギア」とか履いたりしてて、紐も蛍光とかに変えてロコっぽさを出してた感じ。
だからサーフィンを始めるきっかけは単純にモテるし、兄貴もやってたこともあって。
最初は池袋に「マルイスポーツ」ってところがあって、中国製の板とシーガルのウェットスーツとセットで買って、飯田橋から電車に乗って鵠沼まで行ってという感じでした。当時は池袋サンシャインとかウロウロしてたから、そういうショップもいっぱいあって中に「バックドア」ってサーフショップで、そこに先輩とか知り合いが働いてて、毎日パーティーやって寝ないでそのまま海行ってっていう。そんなことばっか(笑)
ーTOKYOと海の往復するスタイルはその時からしてたんですね。
そうそう、ずっと続けてきたコトだからね。
途中から古着とかヴィンテージの文化が入ってきたりして。
池袋の近くに獨協(学校)があってそこの人たちは私立だからおぼっちゃんで結構みんなオシャレで。
あと上野の某チーム(ロッカーズ、バイカーズ系のチーム)があったんだけど、その先輩達がみんなそういう感じだったからそれも影響を受けたかもしれないですね。それこそ西船とか津田沼にも古着屋行ったし、もちろんこの辺の(原宿)古着屋にも通ってたけど、特に「NUDE TRUMP(ヌードトランプ)」(高円寺の環七沿いにあった時代)に結構行っててそこに「清水さん」ってすごいカッコイイ人がいて、その人が色々教えてくれた感じです。
高価なもので高いけど頑張ってお金を貯めて手にした瞬間はドキドキしたし、ちょっと怖いというか、その感覚はいまだに覚えてますね。そういうのを身につけてオシャレするのが好きだったし、財布もハーレー(ダビッドソン)のウォレットチェーンにしようとか、それこそゴローさんとかビンゴさんのトコでも買ってたし。
ヴィンテージライフというものは、今の自分に残っていますね。
それと「旧き良きもの」っていう言葉が昔から好きで。何においても元になるものがヴィンテージだったりするから。
原型になるものからなにか派生させたりとか変化させていくってことは、「温故知新」ってコトだよね。
例えば昔の古着のシャツとかってアームホールが広かったりするけど、それをどう着こなせるか?という楽しみだったり、着れなかったら捨てるのではなくリサイズして着てみたら人に「それドコの?」って聞かれるのが快感だったり。
昔のものを現代にいかすっていうのは表面上のことだけではなく、深いと思います。
そういうことが自分のものづくりの根底にも反映しています。
ーなるほど。音楽とかは何を聴いてましたか?
当時サーフィン始めたばっかりの頃、先輩とかが聴いてたレッチリはいいなと思って。
当時のレッチリってラップというか、そういう感じのスタイルだったからヒップホップだと思ってたんです。
昔は洋楽とかヒップホップってラジオでかからなかったから、アメリカのラジオ局の番組をダビングしたテープがあってそれを買って聴いてました。アンソニー(レッチリのボーカル)がロン毛だし、ましてやトニーアルバもロン毛でしょ?スキンヘッドとか金髪のボウズとかにもしてた時期があったけどなんか違和感があって、最終的にはロン毛がスタイリッシュだなって思って、そっちのが不良っぽかったという感じもしたのでそこから髪を伸ばしはじめました。
昔の先輩とかもまた再会して一緒にツルんだりしてるし、そういうことはすごいと思いますね。
昔はやっぱ憧れる人たちがいっぱい上にいたし、スターみたいな人って何人かいて。逆に今は自分が発信する立場になって、そういう所を強く思って目指してきたからそれに近づいて成長していけてるのかなって。
ー社会に出てからは?
高校のときはそんな感じでずっと遊んでたから受験しようと思ったけど勉強してきてなかったから入れなくて結局短大に行きました。そこを卒業したあと何しようって、実家を手伝ってたんだけど兄貴が跡取りだし、ロン毛だし(笑)どうしよっかなと思ってたところにちょうどパタゴニアが募集してて。
目白と鎌倉と札幌に3店舗しかない時代に入ったんだけど、1年くらいで辞めちゃったんだよね。というのもパタゴニアがファッションで流行っちゃって自分がいた目白店は本当に山とかで着るハードコアな人たちが結構来てたんだけど、その人達に商品が行き渡らなくなってしまう状況があったり、表通りにお店を出さないとか色々細かいパタゴニアの哲学があるんだけど、自分なりに違和感を感じてしまったんだよね。
で、もう少しサーフィンの専門的な方に行けないかなって思って。
先輩の影響で当時使ってたサーフィンギアは「DAKINE(ダカイン)」で。ハワイに行くとロコの奴はみんなDAKINE使ってるのを知ってたし、日本のDAKINEのディストリビューターを受けてみようと思って、サーフィン雑誌見て調べて電話したんだけど募集してなくて。そう聞くと余計入りたくなっちゃって毎月電話して(笑)そうするとだんだん覚えられて。「いやーまだ募集してないんですよ」とか言われて。
でも6ヶ月くらいに電話した時に偶然偉い人に繋がって「すごいDAKAINE好きでハワイでロコ達が使ってるんですけど、でも日本じゃまだ使っている人少ないですよね?なんでもいいんで枠ないですか?単純にDAKINEが好きなんです」って。
その時は「いや〜。わかるんだけどないんだよな〜。」みたいな感じで話しして終わったんだけど、2週間くらいして急に電話かかってきて、とりあえず履歴書送ってくれって。「キター!」と思って。で、志望動機書を作文用紙に4枚くらい書いたの。求められてないのに(笑)そしたら一回会いましょうってことで、面接の時に髪結わいてスーツ着てっちゃって。意外に真面目でさ(笑)。そんな経緯で入社したんだよね。
最初は埼玉の奥の倉庫で作業から始まって。その時はすでに周りの友達も出版社の編集にアシスタントでいたり、先輩がスタイリストやってたり、ショップの店員やってたりしてたから、もし営業になったらそういうカジュアルなマーケットにも置けるなって思ってて、実際そういう動きをしたら結構順調に置いてもらえて。
もちろんプロショップにもハイエースに積んで営業しに行ったけど、日本での知名度がないとか、どちらかと言うとシブめのライダーとかサポートしてたから、ニュージェネレーションのサーファー達には響かないっていっぱい断られたりもしてましたね。
ある日会社で「Tony Alvaやるぞ。泰、お前やれ」って言われて。当時も超オールドスクールなスタイルでロン毛で、VANSしか履かなくて。って感じで洋服屋に友達も多いし、適材適所じゃないけど会社は察してくれてて。
じゃあTony Alvaやれば?って。
ー必然的な流れですね。憧れていた人だし。
そこから本人にも会っていろいろ話して。Tシャツとかパンツがそこそこ(型数)あったんだよ全部アメリカ製で。Tonyもなんか可能性を感じてくれて、日本に来てくれた時にツアーを組んだりして山形のBowlだったり札幌のBowlに撮影を兼ねて行ったりして。その映像を「横浜ベイホール」でやったイベントで流したり。
並行して洋服のセールスもやって、「BEAMS」、「FREAK'S STORE」、「Ciao Panic」、「乱痴気」、「Tall Free」とかほぼ飛び込みで営業しに行ってました。名刺も真っピンクの台紙に黒文字で「Alva」ってロゴが書いてあって。今思えば、性格は威圧的だったしロン毛でポークパイハット被ってて俺、超パンチあったから(笑)「なんなんだコイツヤベェな。コイツ持ってくるTony Alvaヤバそうだな」ってきっと思われてたと思うよ(笑)
当時、結構話題にもなって。Tony Alvaまた復活!みたいな感じで、Tonyが来日してる時に雑誌で藤原ヒロシさんと対談してもらったりとか、勝又さん(MASAHIKO ” CUTS ” KATSUMATA )と一緒に鎌倉でセッションしてもらったりとかいろいろやってました。思い入れある人が多いから、あの世代の人達って。
一緒にサーフィンしたりしてTonyと共有してきた時間は自分の中でデカかったですね。やっぱり彼は「スター」だから。
もちろんニッチな世界だから知らない人もいっぱいいるけど、セルフプロデュースじゃないけど外にいるときは常に「自分の魅せ方」っていうのを意識してたよね。
スケートとかサーフィンって歳をとっても好きな気持ちは変わらないでしょ?それは人それぞれ何でもいいと思うけど、ひとつのものにこだわること、突き詰めることが人の結果となったり奥行きになったりするんだってことをTonyから学びました。だから「好きなものは好きでいいじゃん」って。そこは一生腐らないから。
だから自分のブランドをスタートする時に、ずっとブレずに好きなものを、その時代にフィットした表現をしていこうと決意したんです。